イトウは心に宿る31
搭乗口へ集まる人々の装いを見て思わず笑ってしまう。
気温にそぐわない厚着をした我々とは反対の、
薄着でさらにはサンダルを履いた人々がいる。
どうやら薄着の人達は沖縄行きの飛行機に乗るらしく、
その誰もが若くて陽気が弾けている。
沖縄に到着するなり海に飛び込むべく、
きっと服の下はもう破廉恥なビキニではないかとも思わされた。
それに対して我々北海道行きの厚着派は、
平均年齢高めでどこか鬱屈としており、
薄着派とは混じることのない明確なサーモクラインが引かれていた。
思わず沖縄もいいな・・・・・・と口から零れてしまうと、
概ちゃんが、
「沖縄にはどんな魚がいるんやろーって考えてる。すぐ魚のことやし」
なんて言い出し、これはご名答。
僕の頭の中では地味な色をしたロウニンアジではなく、
カスミアジのような色鮮やかなお魚ちゃんや、
色取り取りの熱帯魚ちゃんが群れを成し、
白い砂浜に寝転がっていたり、胸を揺らして浅瀬で戯れていた。
これからヒグマが待つ北海道の冷たい水で糸を垂らす奴がいるだなんて、
沖縄へ行く彼女達の誰が想像できよう。
十時五十六分、乗客を待つ旅客機に乗り込み、
指定していた窓際に着座した。
事前に席を予約する際に概ちゃんに抜け駆けしていたので
彼女の席は僕の隣ではなく、通路を挟んだ僕の左斜め後ろだった。
この意味のない微妙な距離感に複雑な想いをした。
十一時二十分、
三ヵ月前に概ちゃんと観に行ったトップガン・マーヴェリックに
登場したスーパーホーネットを彷彿とさせるほどの加速度はなかったが、
大きな機体は宙へ舞い上がり地上に並ぶ建物をみるみる小さくした。
窓の外にあるのはひたすら広がる雲海と濃い青をした空。
地上では体験できない別世界の景色は、
聖帝サウザーの気分にさせるに十分であり、
下界で汗水を垂らしてひっきりなしに働く下々の民に向かい、
東京証券取引所の後場終わり十五時までしっかり経済を回せと、
頬杖を突きながら二時間だけの王座を満喫する。
空の上で正午を跨ぎ、北海道へ向かっている現実が僕に語りかけてくる。
最終目標の魚であるイトウを釣ることができたなら、
僕はなにを感じ今後どう生きるのか。
イトウは難しい魚ではないと想像でき、
イトウが生息できる環境が整っていたならばきっと釣れる。
初魚との出会いは人生で一度きりなのだから、
これまで同様、出会うまでの過程を大切にしよう。
あれこれ想像するうちに、
釣り上げてからのことを考えるのは野暮だと気付いた。
次第に眼下にはまさに航空写真で見る地上が現れ、
陸と海の境となる海岸線が延々と続き、そこを通過すると
今度はどこまでも広がる緑の大地を飛んだ。
機はゆっくり高度を下げるが、
見渡す限り建物がないことに気づき、
本当に日本だろうかと疑いつつ、これが北海道なのだ。
十三時二十分、離陸から丁度二時間で目的の空港に着陸。
今度は陸から空を見上げると鈍色の雲に覆われていた。
お金で最短時間を買ったので海路や陸路より遥かに早く
到着できたのだけど、
始発バスに乗ってから到着が午後になるのだから、
これまでのどこよりも遠くの魚に会いにきたのだと思わされた。
いや、まだ水辺ではなくこれから長い長い陸路を経て、
予定では片道十二時間の行程になる。
目的地へ到着するのは陽が西の空に沈んでからになるので下見も
できないはずだ。この季節の北海道は夜明けと日没が早い。
空港で手配していたレンタカー店の送迎車に乗り、
今日から一週間お世話になる車の元へ案内された。
まず驚いたのはリモコンでドアのロックが解除されること、
いや正確にはリモコンのボタンを押さずして、ドアノブに触れたら
開錠される。
さらにイグニッションにキーを差し込むことなく
レーシング・カーよろしくスターターボタンでエンジンに火が入るのには
参った。
パワーウインドウにパワーステアリングまで装備され、
ギアはドライブレンジに入れれば速度に応じて
自動でギアが変速されるAT仕様。
オートブリッパー同様、減速時にヒール&トゥが不要なのは楽である。
驚きっぱなしの僕に概ちゃんが、
これが皆が乗っているごく普通の車だと諭される。
なんやったら乗り心地が良く車内がとっても静かであるとも。
もっとも驚いたのはセンターコンソールに鎮座する
ナビゲーションシステム。しかしこれは無用の長物、
道案内はスマホで十分ではないだろうか、この時代遅れめ。
そんなスマホの充電用に持参していたシガーソケットの変換器だったが、
そもそもシガーソケットなどなく、
USB電源が標準装備されておりこれこそが無用の長物であった。
都会から田舎に来たのに、なにこの浦島太郎感。
贅沢が集約された近未来型自動車に戸惑っていると、
レンタカー店のスタッフがアドバイスをくれた。
店を出てすぐの曲がり角に一時停止線があるのでお気をつけくださいと。
ちなみに全国の最たる交通違反は一時停止違反。
普段から守っていないはずがなく、
もちろん信号のない横断歩道に歩行者がいれば停止する。
サーキットは速いのが正義だが、公道は無事故・無違反が絶対正義であり、
一番格好良い。
アドバイスはありがたいのだけど、
こちらは金色眩い免許証を携帯する超優良ドライバーだ。
サーキットでは1コーナーをオーバーランする常習者でも、
停止線は綺麗に停止するテクニックを持ち合わせている。
初めての道だから一時停止線を見落としがちなのかもしれないが、
優先道路を走る車、特に北海道は速度が高めの車が多く、
その前に飛び出すなんて自殺行為だし、
自分の前に飛び出してくる違反車がいるかもしれない。
違反なんてダサいことをするわけがない・・・・・・と、
その曲がり角に来た時、早速捕まっている『わ』ナンバーを見て、
出オチやんとせせら笑った。
きっと旅行者だろう、
重大事故の当事者になり人殺しする前に捕まって良かったじゃない。
後に秋の全国交通安全運動中だったことを知り、
レンタカー店に戻るまで数々の取締まり対象を目撃することになる。
僕達は違反者を尻目に遥か遠くにある水辺へと、
近未来自動車で陸路を進んだ。
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