イトウは心に宿る51

Миру Україні

2025年01月30日 07:07


 北海道の朝を迎えるのは五回目となり、
そろそろイトウ釣りでもするかと精一杯の早起きで七時に布団を抜け出した。
 ひんやりした新鮮な空気を体中に取り込もうと外に出ると、
遠くの空からけたたましい鳴き声をした生物がこちらに向かって飛来してくるのを確認。
三羽の編隊は鳥類の親子らしかったが、
近づくにつれロプロスのような巨体の正体はタンチョウだったが、
鳴き声、いや、雄叫びは静寂を切り裂き、近所迷惑この上なし。
そこには昔話でお馴染み『鶴の恩返し』の美しさは微塵もなく、
助けてもらった恩を仇で返してくる悪女ではないかとさえ感じられた。
同じ騒々しいのでもイソヒヨドリやミソサザイのような囀りは大歓迎なのに。
 北海道に来てからというもの愚痴が散見するが、
それはまるで憧れのパンダを動物園に見に行ったものの、
体の白い部分が薄汚れているし、臭うし、
現実を見た人々が思っていたのと違うとつぶやいたのと似ているかもしれない。
だがこれも来たことで初めてわかったリアル北海道なんだと受け入れた。

 まずは数日前に会った地元釣人の合言葉を実行すべく、
別女穴川の畔に居を構える釣人の親類宅へ向かった。
 時はコロナ禍であり、見知らぬ都会から来た人間を受けいれてもらえるか
大きな不安を抱えたまま。
そんなこともあり無礼を承知で手土産の用意を遠慮させてもらった。
未知のウイルスは異常な数年間を人間社会にもたらし、
人との交流が少なく警戒心が低い土地にも感染が拡大していた。

 地図が示す住所付近に到着したが、
道路を曲がってから家までの距離はさすが北海道である。
平野部のポツンと一軒家にご挨拶をすると快く迎えてくださり胸を撫で下ろしたが、
家の横に併設するゲートの開錠をしながら、
ヒグマが生息していることを厳しい口調で忠告された。
僕は頷き車を奥へ進めた。

 このご時世の未舗装路は雰囲気を高めてくれ、
左右の森からなにが飛び出してくるかわからない恐怖より、
なにか飛び出してきてほしいと願う自分であるが、
それは箱の中で安全であるからであり、徒歩だと無理。
 しばらく車体に揺られると、川へ続くであろう入口に到着したが、
ここまで全て個人の所有地なのかと呆れてしまうほど広大だ。

 さてここからは徒歩だ。川へ続く道といっても道なき道であり、
プライベート・ポイントのくせに踏み跡がまったく見つからない。
その先は川の水がまだ引いていないらしく浸水林になっているため、
釣り道具は無用の長物となりそうだ。カメラだけ携えて水際まで進むことにした。
 初めての場所、増水、薄暗い浸水林、ヒグマ生息地、単独。
かなり厳しい条件が揃っているが、この先にイトウ生息地が待っている。
時に太もも辺りまで沈む地面に恐怖しながらも、
浸水林の先に陽射しがこぼれているのが見えるのは希望だった。
 ようやく辿り着いた水際は少し高くなっており足場として問題なかったので、
数日前にあちこちから越流した水が浸水林を形成していたようだった。
 目の前を流れる川はカフェオレ色した濁流で、
はたして通常の色なのか判断できないが、さすがに増水によるものだろうと感じる。
どこを眺めても岸に生える植物が水面に覆いかぶさり陸と水の境界はあいまいであるし、
落ちていた長い木を足元に突き刺して水深を確認しようとするも、
わからないほど深いようだ。
いまこの流れに落ちたら確実に虹の橋を渡ることになるのは想像に難くなかった。

 滞在期間に本流が平水に戻ることはなさそうで、この状況で魚釣りは成立しない。
しかし平水になったところでイトウ釣りが成立するのも首を傾げたくなるような
激しい植物群落。巨大な倒木、倒れてなお生きようと青々とした葉を蓄える倒木、
無造作に流れを遮るような倒木に、さらには倒木に絡む流木、
そんなものがあちこちにある。
キャストというキャストは無理で、せいぜいピッチングしかできない。
上流や下流に移動しようにも、倒木だの木々だので岸沿いを歩けず、
カヤックも通行不能。
誰もが手を出せない、これこそがイトウの楽園なんだと納得できる。
画像で見た、あんなに長くて重い獰猛な顔つきをしたイトウがここに潜む。
そして誰もここを特定できない、辿り着けない、この光景を見られない。
イトウを釣ってもいないのに清々しい優越感。
いまできることは撮影のみ。濁流に不釣り合いな久しぶりに見た青空が、
さらに気分を晴れやかにした。

 シャッターを切っていると、上流側から高い鳴き声が近づくのに気付いた。
これは間違いなくエゾヤマセミだ。しかもヤマセミの姿を撮影できたこともなければ、
聞いたこともない鳴き声なのに確信できたのは、カワセミのそれと似ていたからだ。
流れに沿って、くるぞくるぞと構えたカメラに装着しているのは超広角レンズ。
溢れる絶望感に、撮影を諦めその雄姿を目に焼き付けるべくエゾヤマセミの通過を見送った。
鈴鹿の最終コーナーを立ち上がり、第一コーナーに向かうマシンを眺める観客の如く。
望外であった。感慨無量。イトウ生息地でエゾヤマセミを見る贅沢。北海道大好き。

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