イトウは心に宿る49

Миру Україні

2025年01月18日 07:07

強く張った糸の先で魚が身を捩ったその刹那、
針が外れて弧を描いていた竿が元の姿に戻った。
魚の正体は判らぬままだがアメマスであろう。
魚が居るべきところに居たことが証明されたことに、
まずまずの満足感は得られた。

誰にも教わらず訪れた初めての場所で、
自分の思い描いた釣法で魚の生息を知ること、
これが魚釣りの本質であると少年期から感じている。
釣り仲間と協力して喜びを共有するのも決して悪くないが、
全てを単独で完結することが僕の求める至上の喜び。

ある時こんなことがあった。
小学四年生の坊主を連れて魚釣りに行き、
数も大物も釣れたことで喜んだ坊主がばあさん(僕の母)に
毎度するように釣果報告をした。
するとばあさんは目を細めて喜び、こう続けた。
「でもあなたのお父さんは小さい頃から独りで行って釣ってきたよ」
厳しい捉え方をすると、その釣果は自分の実力ではなく他力本願であること。
釣らせてもらっているのに、あたかも自分で釣ったかのような言い方は恥ずかしい。
そんな薄っぺらいことで喜ばず、そろそろあなたも一人前になりなさいと、
物事の本質を捉えて坊主に発破をかけたばあさんにナイスと僕は思った。

のちに坊主は努力して独りで仕掛けを作れるようになり、
僕の知らない場所で驚かせるような釣果を何度も突き付けてきた。
そんな大きな針でよく掛けたなと唸らせた極小モツゴは、
小さいほど釣るのが難しいため価値があると教えてきた。
いつかの時は、帰宅した僕を驚かせるべく釣ってきた沢山のアメリカザリガニを
買い替えたばかりの洗面器に入れて玄関に置いていたが、
不運なことに妻や姉達にバレ、
洗えばいいだろうと反論したらしいが女連中がそれを許すはずもなく、
いますぐダイソーで新しいのを買ってこいと命じられたらしい。
そんな伝説のザリガニ洗面器は廃棄されることなく、
エンジンオイル受けとして余生を送っている。

坊主は成長するにつれフットワークが軽くなり、
僕がまだ見ぬ魚種を釣っては画像を送り付けてくる。
高校生になると自分で探索した場所で僕の最長記録を超えるスズキを釣り、
僕にハンカチを噛ませた。実に感じの悪い父親越え。
今回の北海道旅行の際には原野とヒグマの件もあり、
生きて帰ってくるよう身を案じてくれた。

そんな折だった。
次の場所へ移動しようと岸伝いを慎重に歩いていたのに、
いや、それこそ岸際は歩かないようにしていたのに、
次の一歩で靴底が踏むはずの地面が消え、
宙に放り出された体は約1メートル下にある冷たい流れに落水した。

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