2023年01月30日
イトウは心に宿る10
これまで北海道の大地を踏んだことがないのに、
イトウとニアミスする不測の事態に遭遇した。
イトウに関する資料を紐解けば、本来の生息地は北海道と、
過去には東北とある。
それなのに、あぁそれなのに、兵庫県の老舗ニジマス管理釣場では、
お正月のお年玉としてイトウが川にぶち込まれ、
ニジマスに交じり大きなイトウが泳ぐ姿を確認できた。
養殖イトウに罪はないけれど、
釣堀の養殖魚を釣って感動なんてできやしない。
管理人のジジイが僕に言った。
「今日はイトウを釣らないと価値がないぞ」
もう苦笑いをするしかなかった。
養殖イトウを釣ることに価値があるのか甚だ疑問であり、
いちいち反論するのは時間の無駄である。
誤解なきよう補足するなら、
釣堀の魚を釣って感動できる釣人を見下すつもりはない。
喜べることは幸せなことで、
純真無垢な心が消失した僕が不幸なのだ。
養殖魚ではないけれど、
釣人の多くに歓迎されない魚を喜べる人がいる。
ある時、隣でサビキ釣りをしていたカップルがボラを釣り上げ
歓喜していたのを見て、
これが魚釣りの本来の姿だと再認識した。
ボラを水に帰さず陸に放置する外道釣人と、
どちらが幸せな時間を過ごせたかは明白だ。
こんなこともあった。
上流にはニッコウイワナ・ヤマメが泳ぐ西日本の川の漁協組合員が、
イトウを放流する計画があると誇らしげに言った。
恥を忍んで白状すると、その組合員は叔父だ。
僕はそんなことをするものではないとジジイ、
いや、叔父に苦言を呈した。
イトウだけでなく、なぜ本来そこに生息しない移入種を放流するのか。
外来魚が侵入することで食い分けや棲み分けによる生態的地位が崩れ、
または遺伝子汚染と呼ばれる同種や近似種間の交雑により、
在来種は絶滅の危機に瀕する。絶滅すればもう二度と出会えない。
在来種への計り知れない影響など考えたこともないだろうし、
放流しなければ釣人がお金を落としてくれない。
川に訪れる釣人の多くは釣れればなんでもいい。
この悪循環。
イワナという標準和名の魚はいない。
分類学上ニッコウイワナ・ヤマトイワナ・ゴギ・アメマスなど、
イワナ属にはそれぞれ名前があり、
各生息地の特徴を備えた個体も存在する。
それなのにイワナを一括りにして放流し、
ヤマメ生息地なのにアマゴを放流するからサクラマスも帰ってこず。
釣れればなんでもいいという意味を履き違えた漁協組合員と、
釣れない天然魚より釣れる外来魚を歓迎する釣人達。
漁協の事務所には「外来魚密放流STOP!」のポスター。
外来魚とはサンフィッシュ科だけではないのだよ。
こんな漁協で鑑札を購入すると、
そのお金で漏れなく国内移入種が放流される。
自然の川でする魚釣りがこんな低次元でいいのか。
海外にみる厳格なレギュレーションが日本の河川にも整っているなら、
高価なライセンス料を支払う価値があると僕は思っている。
思うだけでなく、微力ながらそれに向かって文章にしたためている。
きっと読者の心に届くはずだ。
北海道の河川には天然魚が泳ぐ。
天然というのは、人為が加わっていない自然のままの姿。
禁漁区や採捕禁止魚種もあるが、
イトウを釣る河川は遊漁料が不要で、そこに泳ぐ魚達は全て天然魚だ。
なんと素晴らしいことだろう。
国内に楽園があった。
楽園であることの真相は、
毎年のサツキマス詣で知り合った釣友の話にもあった。
彼の北海道アメマス釣行を聞いたのは、
いつものツンデレ鉄板焼き屋だったか。
スマホに映し出されるアメマスの数々を見せられ、
その素晴らしさに感嘆の溜息が漏れる。
彼はこれでわかったと言う。
魚が豊富だといつもの釣り方で簡単に釣れるのだと。
重要なのは魚が健全に生息できる環境であることに
気付いたのは大きな収穫で、まさにその通りだ。
行程難度が高く釣人が寄り着かない源流、
もしくは適切に再放流がされている渓流であれば、
イワナ属を釣ることに難しさは伴わない。
むしろ最も簡単に釣れる魚のひとつだといえる。
ゆえに沢山釣ったことの自慢をするのではなく、
それは生息場所が健全であることの証明でありたい。
釣りあげた渓魚を台所にぶちまけた釣果画像と共に、
最近釣れなくなってきたなどと文章が添えられたのを
目にした時は、まだこんな前時代的釣人がいるのかと
冷ややかな目つきになる。
ただし漁協が放流した移入種であれば、
持ち帰って胃袋に入れるのは大賛成。
このような考えを他人に強制するのではなく、
考えの違う人と交わることをしないだけ。
同志を募っているのでもなく、
大事なのは自分はどう考え行動するのかだ。
イトウとニアミスする不測の事態に遭遇した。
イトウに関する資料を紐解けば、本来の生息地は北海道と、
過去には東北とある。
それなのに、あぁそれなのに、兵庫県の老舗ニジマス管理釣場では、
お正月のお年玉としてイトウが川にぶち込まれ、
ニジマスに交じり大きなイトウが泳ぐ姿を確認できた。
養殖イトウに罪はないけれど、
釣堀の養殖魚を釣って感動なんてできやしない。
管理人のジジイが僕に言った。
「今日はイトウを釣らないと価値がないぞ」
もう苦笑いをするしかなかった。
養殖イトウを釣ることに価値があるのか甚だ疑問であり、
いちいち反論するのは時間の無駄である。
誤解なきよう補足するなら、
釣堀の魚を釣って感動できる釣人を見下すつもりはない。
喜べることは幸せなことで、
純真無垢な心が消失した僕が不幸なのだ。
養殖魚ではないけれど、
釣人の多くに歓迎されない魚を喜べる人がいる。
ある時、隣でサビキ釣りをしていたカップルがボラを釣り上げ
歓喜していたのを見て、
これが魚釣りの本来の姿だと再認識した。
ボラを水に帰さず陸に放置する外道釣人と、
どちらが幸せな時間を過ごせたかは明白だ。
こんなこともあった。
上流にはニッコウイワナ・ヤマメが泳ぐ西日本の川の漁協組合員が、
イトウを放流する計画があると誇らしげに言った。
恥を忍んで白状すると、その組合員は叔父だ。
僕はそんなことをするものではないとジジイ、
いや、叔父に苦言を呈した。
イトウだけでなく、なぜ本来そこに生息しない移入種を放流するのか。
外来魚が侵入することで食い分けや棲み分けによる生態的地位が崩れ、
または遺伝子汚染と呼ばれる同種や近似種間の交雑により、
在来種は絶滅の危機に瀕する。絶滅すればもう二度と出会えない。
在来種への計り知れない影響など考えたこともないだろうし、
放流しなければ釣人がお金を落としてくれない。
川に訪れる釣人の多くは釣れればなんでもいい。
この悪循環。
イワナという標準和名の魚はいない。
分類学上ニッコウイワナ・ヤマトイワナ・ゴギ・アメマスなど、
イワナ属にはそれぞれ名前があり、
各生息地の特徴を備えた個体も存在する。
それなのにイワナを一括りにして放流し、
ヤマメ生息地なのにアマゴを放流するからサクラマスも帰ってこず。
釣れればなんでもいいという意味を履き違えた漁協組合員と、
釣れない天然魚より釣れる外来魚を歓迎する釣人達。
漁協の事務所には「外来魚密放流STOP!」のポスター。
外来魚とはサンフィッシュ科だけではないのだよ。
こんな漁協で鑑札を購入すると、
そのお金で漏れなく国内移入種が放流される。
自然の川でする魚釣りがこんな低次元でいいのか。
海外にみる厳格なレギュレーションが日本の河川にも整っているなら、
高価なライセンス料を支払う価値があると僕は思っている。
思うだけでなく、微力ながらそれに向かって文章にしたためている。
きっと読者の心に届くはずだ。
北海道の河川には天然魚が泳ぐ。
天然というのは、人為が加わっていない自然のままの姿。
禁漁区や採捕禁止魚種もあるが、
イトウを釣る河川は遊漁料が不要で、そこに泳ぐ魚達は全て天然魚だ。
なんと素晴らしいことだろう。
国内に楽園があった。
楽園であることの真相は、
毎年のサツキマス詣で知り合った釣友の話にもあった。
彼の北海道アメマス釣行を聞いたのは、
いつものツンデレ鉄板焼き屋だったか。
スマホに映し出されるアメマスの数々を見せられ、
その素晴らしさに感嘆の溜息が漏れる。
彼はこれでわかったと言う。
魚が豊富だといつもの釣り方で簡単に釣れるのだと。
重要なのは魚が健全に生息できる環境であることに
気付いたのは大きな収穫で、まさにその通りだ。
行程難度が高く釣人が寄り着かない源流、
もしくは適切に再放流がされている渓流であれば、
イワナ属を釣ることに難しさは伴わない。
むしろ最も簡単に釣れる魚のひとつだといえる。
ゆえに沢山釣ったことの自慢をするのではなく、
それは生息場所が健全であることの証明でありたい。
釣りあげた渓魚を台所にぶちまけた釣果画像と共に、
最近釣れなくなってきたなどと文章が添えられたのを
目にした時は、まだこんな前時代的釣人がいるのかと
冷ややかな目つきになる。
ただし漁協が放流した移入種であれば、
持ち帰って胃袋に入れるのは大賛成。
このような考えを他人に強制するのではなく、
考えの違う人と交わることをしないだけ。
同志を募っているのでもなく、
大事なのは自分はどう考え行動するのかだ。