2023年01月14日
イトウは心に宿る3
16歳といえば人生初の国家資格である原付免許証を取得。
これにより魚釣りの行動範囲が飛躍的に向上したのは言うまでもなく、
ブラックバス釣りにおいては隣県の水系にまで及び、
記念すべき初スズキとの出会いがあったのも、
自転車では遠かった河口までバイクで行けたからだ。
ある日のブラックバス釣行で面白い出来事があった。
夜討ち朝駆けで釣りを開始し、その時投げていたのは懐かしの
ファットギジットで、USAのバスプロ、ギド・ヒブドン氏のG2だ。
足元まで動かしてきたG2だったが、底に沈んだ岩に噛んだ感触があり
外すのに往生していた。それでもロッドを煽っていると、
根掛かりが急に走り出した。なんと狙いのブラックバスが喰ったのだ。
釣れ方に異議ありと唱えたいが、
狙いの魚が居る所に投げていたことに間違いもない。
なんだかすっきりしないけれど、
なかなかの良型に堪えきれない喜びを感じた。
ある日の書道の時間だった。
若くて顔もスタイルも悪くなく、
タイトなニットを着てお胸を強調するあざとい書道の女教師に指示され、
無地の団扇に文字を入れることになった。
入魂する文字は『例の』漢字に決まっていたが、
失敗を恐れた僕は、本番前に女教師にお手本をお願いすることにした。
すると、仕方ないわねと微笑んだ女教師が目を見つめながら歩み寄り、
僕の右肩にそっと手を乗せ、おもむろに背後へ回り込んだその刹那、
左手の上に女教師が手を重ねたのと同時に
大きく実った二つの果実が二人の隙間を埋めて潰れる。
僕は硬直した。
それを見透かされたらしく、
硬くなっているから肩の力を抜くよう優しく耳元で囁かれると、
小さく頷き言われるがまま身を委ねるしかなかった。
筆を持つ右手を上から重ねて握る女教師の手は温かく柔らかい。
慣れた手つきに誘導され、液体が満たされた硯へ優しく筆を下ろし、
先端をしっとり濡らす。
屹立した筆を、未だ汚れを知らぬ白い半紙の上に運ぶと、
我慢できない液体が筆先から滴り落ちそうになっていた。
未経験を恥なくてもいいと慰められながら、
強弱を交えた力加減で艶めかしく動く筆が半紙を撫でると、
イトウの文字が浮かび上がった。
イトウの文字を漢字で書いたのは、
意識の奥底に目を光らせ潜んでいるイトウ釣獲への決心。
しかしながら書体を眺めるに、
イトウの印象や習性などへの想像力が欠如しており、
まだまだ釣獲できる境地に達していないことが明らかだ。
ただ、この団扇は数十年の間に起きた生活環境の変化や、
引っ越しがあろうとも捨てることなく現在まで部屋に飾ってきた。
イトウへの執着心だけは我ながら天晴。
すぐ行動には移せないけれど、これぞイトウを希求する証。

高校時代には生涯の魚釣りスタイル確立を示唆する
出来事があった。
1988年晩夏の夕暮れ間近。
僕はAダムの上流部でブラックバスを狙っていた。
その近くにはサングラスをしたガラの悪そうなにーちゃんが居て、
ベイトタックルでトッププラグをめちゃくちゃ飛ばしている。
その飛距離に、格が違うと圧倒されたのに、
さらにはめちゃくちゃ釣る。
簡単ではないはずのブラックバスを入喰いさせるなんて。
さらに凄いことが起きた。
50センチ超のランカーバスを釣ったのだ。
そんな大きなバスを釣ったこともなければ見たこともない僕は、
ただただ驚いた。
そのにーちゃんはバスを見て喜んでいた。
確かに喜んでいたけれど、
過去に何度もランカーバスを釣ったことがあったのだろう、
はしゃぐことなくしばらく眺めて優しく水に帰した。
その姿がめちゃくちゃ格好良かったのだ。
なかなか強烈な印象で、
大人になるまで記憶に焼付いていたこの出来事。
時は2004年。
1989年インテックス大阪の釣具の見本市以来になる、
フィッシングショー大阪へ実に十五年振りに訪れた。
そこがWhiplash factoryブースと知らず偶然入ったのだけど、
ショーケースに整列したウィードレスプラグに目が留まった。
この中に自分が持っているウィードレスプラグが展示されており、
このブースはもしや・・・・・・と思い始めていると、
いかついにーちゃんに声を掛けられ、
Whiplash factoryの缶バッヂを詰め込んだ箱から
お好きなのをどうぞと選ばせてもらった。
お礼と少しお話させていただき僕は気づいた。
このお方を知っている。
釣り雑誌で大きなカムルチーを持っているのを何度か見たことがあるし、
同僚が持っていた月刊タックルボックスの誌面では、
猫も杓子もバス釣りのバスブーム最盛期だったのに、
ライギョやニゴイをルアーで釣る記事に登場されていた新家邦紹氏だ。
ブラックバス以外を外道と忌み嫌う風潮が蔓延している時に、
バスのみならず色々な魚を釣る自分と同じだと共感を覚えていた。
そこで名前の漢字をどう読むのか同僚にたずねると
「ニイノミ クニツグ」氏だと言う。
その名前を覚えていた僕は、
もしかして新家さんでしょうか、なんて言ってしまった。
だってまさかフィッシングショーに
ご本人がいらっしゃるなんて思いもよらず。
今となってはフィッシングショーだからいらっしゃるのだけど。
ご本人とお会いできることを想像もしていなかったので驚きと光栄だった。
帰宅してからはWhiplash factoryの初期のホームページを読むのだけど、
釣行エッセイが素晴らしく、文章を読むだけで読書家かつ博学多識であることがうかがえた。
そして新家氏もまた完全バーブレス・フック派だと知る。
こういった部分から釣魚に対する姿勢を熟慮されているのがわかり、
産卵床や仔魚を守る親魚は狙わないと公言されていた。
僕もそういうことはご法度だと学んできた。
魚種は違うが、渓流の秋期から冬期が禁漁期になる理由は、渓魚の産卵を守るためだ。
なのにこの時代はなんでもありが蔓延る第二次バスブーム。
産卵床を守る親魚を釣り上げるテクニックが紹介され、
それを良しとする業界の風潮。
これを主流とするならば、Whiplash factoryは反逆であり異端となるが、
物事の本質を問うならこちらが主流ではないか。
魚釣りに対する確固たる姿勢、生き物好き、
狙う釣魚の多さしかり、プロデュースする製品群には胸が躍り、
僕の釣り幅は加速して広がっていく。
新たな釣魚に挑む時は必要に応じてWhiplash factoryブランドの
タックルを揃え、
使うほどに質実剛健な製品に信頼を置けるようになった。
でもまだ重大なことを僕は気づいていない。
フィッシングショー大阪に行くのは毎年恒例となり、
新家氏に顔を覚えてもらっていた数年後、
仕事中に、ふと、本当にふと、遠い昔の記憶が閃いた。
え・・・・・・もしかして・・・・・・。
1988年晩夏のAダムで見ためっちゃ釣りが上手い
サングラスのにーちゃんは新家氏ではないだろうか。
約二十年の時を経て気づいたものの確認する術は、
フィッシングショー大阪開催期間しかない。
これほどまでに何かを待ちあぐむことは珍しかった。
数か月経ち、待ちに待ったフィッシングショー大阪開催。
当時、そのにーちゃんは友人家族と四駆で来ていたこと、
釣りをしながら無線を使用していたこと、
その他諸々その時の状況をお伝えするとやはりご本人だった。
鳥肌が立った。
あのめちゃくちゃ釣りが上手なにーちゃんが
プロデュースしている釣具を、
僕は何も気づかず愛用していたのだ。
こんなことある?
未知なる魚を求める時、自分の右手となる信頼を置く道具を選ぶ。
Whiplash factoryとの出会いもイトウに繋がる重要な要素となる。
これにより魚釣りの行動範囲が飛躍的に向上したのは言うまでもなく、
ブラックバス釣りにおいては隣県の水系にまで及び、
記念すべき初スズキとの出会いがあったのも、
自転車では遠かった河口までバイクで行けたからだ。
ある日のブラックバス釣行で面白い出来事があった。
夜討ち朝駆けで釣りを開始し、その時投げていたのは懐かしの
ファットギジットで、USAのバスプロ、ギド・ヒブドン氏のG2だ。
足元まで動かしてきたG2だったが、底に沈んだ岩に噛んだ感触があり
外すのに往生していた。それでもロッドを煽っていると、
根掛かりが急に走り出した。なんと狙いのブラックバスが喰ったのだ。
釣れ方に異議ありと唱えたいが、
狙いの魚が居る所に投げていたことに間違いもない。
なんだかすっきりしないけれど、
なかなかの良型に堪えきれない喜びを感じた。
ある日の書道の時間だった。
若くて顔もスタイルも悪くなく、
タイトなニットを着てお胸を強調するあざとい書道の女教師に指示され、
無地の団扇に文字を入れることになった。
入魂する文字は『例の』漢字に決まっていたが、
失敗を恐れた僕は、本番前に女教師にお手本をお願いすることにした。
すると、仕方ないわねと微笑んだ女教師が目を見つめながら歩み寄り、
僕の右肩にそっと手を乗せ、おもむろに背後へ回り込んだその刹那、
左手の上に女教師が手を重ねたのと同時に
大きく実った二つの果実が二人の隙間を埋めて潰れる。
僕は硬直した。
それを見透かされたらしく、
硬くなっているから肩の力を抜くよう優しく耳元で囁かれると、
小さく頷き言われるがまま身を委ねるしかなかった。
筆を持つ右手を上から重ねて握る女教師の手は温かく柔らかい。
慣れた手つきに誘導され、液体が満たされた硯へ優しく筆を下ろし、
先端をしっとり濡らす。
屹立した筆を、未だ汚れを知らぬ白い半紙の上に運ぶと、
我慢できない液体が筆先から滴り落ちそうになっていた。
未経験を恥なくてもいいと慰められながら、
強弱を交えた力加減で艶めかしく動く筆が半紙を撫でると、
イトウの文字が浮かび上がった。
イトウの文字を漢字で書いたのは、
意識の奥底に目を光らせ潜んでいるイトウ釣獲への決心。
しかしながら書体を眺めるに、
イトウの印象や習性などへの想像力が欠如しており、
まだまだ釣獲できる境地に達していないことが明らかだ。
ただ、この団扇は数十年の間に起きた生活環境の変化や、
引っ越しがあろうとも捨てることなく現在まで部屋に飾ってきた。
イトウへの執着心だけは我ながら天晴。
すぐ行動には移せないけれど、これぞイトウを希求する証。
高校時代には生涯の魚釣りスタイル確立を示唆する
出来事があった。
1988年晩夏の夕暮れ間近。
僕はAダムの上流部でブラックバスを狙っていた。
その近くにはサングラスをしたガラの悪そうなにーちゃんが居て、
ベイトタックルでトッププラグをめちゃくちゃ飛ばしている。
その飛距離に、格が違うと圧倒されたのに、
さらにはめちゃくちゃ釣る。
簡単ではないはずのブラックバスを入喰いさせるなんて。
さらに凄いことが起きた。
50センチ超のランカーバスを釣ったのだ。
そんな大きなバスを釣ったこともなければ見たこともない僕は、
ただただ驚いた。
そのにーちゃんはバスを見て喜んでいた。
確かに喜んでいたけれど、
過去に何度もランカーバスを釣ったことがあったのだろう、
はしゃぐことなくしばらく眺めて優しく水に帰した。
その姿がめちゃくちゃ格好良かったのだ。
なかなか強烈な印象で、
大人になるまで記憶に焼付いていたこの出来事。
時は2004年。
1989年インテックス大阪の釣具の見本市以来になる、
フィッシングショー大阪へ実に十五年振りに訪れた。
そこがWhiplash factoryブースと知らず偶然入ったのだけど、
ショーケースに整列したウィードレスプラグに目が留まった。
この中に自分が持っているウィードレスプラグが展示されており、
このブースはもしや・・・・・・と思い始めていると、
いかついにーちゃんに声を掛けられ、
Whiplash factoryの缶バッヂを詰め込んだ箱から
お好きなのをどうぞと選ばせてもらった。
お礼と少しお話させていただき僕は気づいた。
このお方を知っている。
釣り雑誌で大きなカムルチーを持っているのを何度か見たことがあるし、
同僚が持っていた月刊タックルボックスの誌面では、
猫も杓子もバス釣りのバスブーム最盛期だったのに、
ライギョやニゴイをルアーで釣る記事に登場されていた新家邦紹氏だ。
ブラックバス以外を外道と忌み嫌う風潮が蔓延している時に、
バスのみならず色々な魚を釣る自分と同じだと共感を覚えていた。
そこで名前の漢字をどう読むのか同僚にたずねると
「ニイノミ クニツグ」氏だと言う。
その名前を覚えていた僕は、
もしかして新家さんでしょうか、なんて言ってしまった。
だってまさかフィッシングショーに
ご本人がいらっしゃるなんて思いもよらず。
今となってはフィッシングショーだからいらっしゃるのだけど。
ご本人とお会いできることを想像もしていなかったので驚きと光栄だった。
帰宅してからはWhiplash factoryの初期のホームページを読むのだけど、
釣行エッセイが素晴らしく、文章を読むだけで読書家かつ博学多識であることがうかがえた。
そして新家氏もまた完全バーブレス・フック派だと知る。
こういった部分から釣魚に対する姿勢を熟慮されているのがわかり、
産卵床や仔魚を守る親魚は狙わないと公言されていた。
僕もそういうことはご法度だと学んできた。
魚種は違うが、渓流の秋期から冬期が禁漁期になる理由は、渓魚の産卵を守るためだ。
なのにこの時代はなんでもありが蔓延る第二次バスブーム。
産卵床を守る親魚を釣り上げるテクニックが紹介され、
それを良しとする業界の風潮。
これを主流とするならば、Whiplash factoryは反逆であり異端となるが、
物事の本質を問うならこちらが主流ではないか。
魚釣りに対する確固たる姿勢、生き物好き、
狙う釣魚の多さしかり、プロデュースする製品群には胸が躍り、
僕の釣り幅は加速して広がっていく。
新たな釣魚に挑む時は必要に応じてWhiplash factoryブランドの
タックルを揃え、
使うほどに質実剛健な製品に信頼を置けるようになった。
でもまだ重大なことを僕は気づいていない。
フィッシングショー大阪に行くのは毎年恒例となり、
新家氏に顔を覚えてもらっていた数年後、
仕事中に、ふと、本当にふと、遠い昔の記憶が閃いた。
え・・・・・・もしかして・・・・・・。
1988年晩夏のAダムで見ためっちゃ釣りが上手い
サングラスのにーちゃんは新家氏ではないだろうか。
約二十年の時を経て気づいたものの確認する術は、
フィッシングショー大阪開催期間しかない。
これほどまでに何かを待ちあぐむことは珍しかった。
数か月経ち、待ちに待ったフィッシングショー大阪開催。
当時、そのにーちゃんは友人家族と四駆で来ていたこと、
釣りをしながら無線を使用していたこと、
その他諸々その時の状況をお伝えするとやはりご本人だった。
鳥肌が立った。
あのめちゃくちゃ釣りが上手なにーちゃんが
プロデュースしている釣具を、
僕は何も気づかず愛用していたのだ。
こんなことある?
未知なる魚を求める時、自分の右手となる信頼を置く道具を選ぶ。
Whiplash factoryとの出会いもイトウに繋がる重要な要素となる。
Posted by Миру Україні at 07:07
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