2025年01月30日
イトウは心に宿る51
北海道の朝を迎えるのは五回目となり、
そろそろイトウ釣りでもするかと精一杯の早起きで七時に布団を抜け出した。
ひんやりした新鮮な空気を体中に取り込もうと外に出ると、
遠くの空からけたたましい鳴き声をした生物がこちらに向かって飛来してくるのを確認。
三羽の編隊は鳥類の親子らしかったが、
近づくにつれロプロスのような巨体の正体はタンチョウだったが、
鳴き声、いや、雄叫びは静寂を切り裂き、近所迷惑この上なし。
そこには昔話でお馴染み『鶴の恩返し』の美しさは微塵もなく、
助けてもらった恩を仇で返してくる悪女ではないかとさえ感じられた。
同じ騒々しいのでもイソヒヨドリやミソサザイのような囀りは大歓迎なのに。
北海道に来てからというもの愚痴が散見するが、
それはまるで憧れのパンダを動物園に見に行ったものの、
体の白い部分が薄汚れているし、臭うし、
現実を見た人々が思っていたのと違うとつぶやいたのと似ているかもしれない。
だがこれも来たことで初めてわかったリアル北海道なんだと受け入れた。
まずは数日前に会った地元釣人の合言葉を実行すべく、
別女穴川の畔に居を構える釣人の親類宅へ向かった。
時はコロナ禍であり、見知らぬ都会から来た人間を受けいれてもらえるか
大きな不安を抱えたまま。
そんなこともあり無礼を承知で手土産の用意を遠慮させてもらった。
未知のウイルスは異常な数年間を人間社会にもたらし、
人との交流が少なく警戒心が低い土地にも感染が拡大していた。
地図が示す住所付近に到着したが、
道路を曲がってから家までの距離はさすが北海道である。
平野部のポツンと一軒家にご挨拶をすると快く迎えてくださり胸を撫で下ろしたが、
家の横に併設するゲートの開錠をしながら、
ヒグマが生息していることを厳しい口調で忠告された。
僕は頷き車を奥へ進めた。
このご時世の未舗装路は雰囲気を高めてくれ、
左右の森からなにが飛び出してくるかわからない恐怖より、
なにか飛び出してきてほしいと願う自分であるが、
それは箱の中で安全であるからであり、徒歩だと無理。
しばらく車体に揺られると、川へ続くであろう入口に到着したが、
ここまで全て個人の所有地なのかと呆れてしまうほど広大だ。
さてここからは徒歩だ。川へ続く道といっても道なき道であり、
プライベート・ポイントのくせに踏み跡がまったく見つからない。
その先は川の水がまだ引いていないらしく浸水林になっているため、
釣り道具は無用の長物となりそうだ。カメラだけ携えて水際まで進むことにした。
初めての場所、増水、薄暗い浸水林、ヒグマ生息地、単独。
かなり厳しい条件が揃っているが、この先にイトウ生息地が待っている。
時に太もも辺りまで沈む地面に恐怖しながらも、
浸水林の先に陽射しがこぼれているのが見えるのは希望だった。
ようやく辿り着いた水際は少し高くなっており足場として問題なかったので、
数日前にあちこちから越流した水が浸水林を形成していたようだった。
目の前を流れる川はカフェオレ色した濁流で、
はたして通常の色なのか判断できないが、さすがに増水によるものだろうと感じる。
どこを眺めても岸に生える植物が水面に覆いかぶさり陸と水の境界はあいまいであるし、
落ちていた長い木を足元に突き刺して水深を確認しようとするも、
わからないほど深いようだ。
いまこの流れに落ちたら確実に虹の橋を渡ることになるのは想像に難くなかった。
滞在期間に本流が平水に戻ることはなさそうで、この状況で魚釣りは成立しない。
しかし平水になったところでイトウ釣りが成立するのも首を傾げたくなるような
激しい植物群落。巨大な倒木、倒れてなお生きようと青々とした葉を蓄える倒木、
無造作に流れを遮るような倒木に、さらには倒木に絡む流木、
そんなものがあちこちにある。
キャストというキャストは無理で、せいぜいピッチングしかできない。
上流や下流に移動しようにも、倒木だの木々だので岸沿いを歩けず、
カヤックも通行不能。
誰もが手を出せない、これこそがイトウの楽園なんだと納得できる。
画像で見た、あんなに長くて重い獰猛な顔つきをしたイトウがここに潜む。
そして誰もここを特定できない、辿り着けない、この光景を見られない。
イトウを釣ってもいないのに清々しい優越感。
いまできることは撮影のみ。濁流に不釣り合いな久しぶりに見た青空が、
さらに気分を晴れやかにした。
シャッターを切っていると、上流側から高い鳴き声が近づくのに気付いた。
これは間違いなくエゾヤマセミだ。しかもヤマセミの姿を撮影できたこともなければ、
聞いたこともない鳴き声なのに確信できたのは、カワセミのそれと似ていたからだ。
流れに沿って、くるぞくるぞと構えたカメラに装着しているのは超広角レンズ。
溢れる絶望感に、撮影を諦めその雄姿を目に焼き付けるべくエゾヤマセミの通過を見送った。
鈴鹿の最終コーナーを立ち上がり、第一コーナーに向かうマシンを眺める観客の如く。
望外であった。感慨無量。イトウ生息地でエゾヤマセミを見る贅沢。北海道大好き。
2025年01月23日
イトウは心に宿る50
水辺の遊びが一転して水難事故は起こるものだと、
太い幹の倒木に両の手で掴まりながら改めて反省した。
体が落下する瞬間は冷静といえないながらも、
反射的に右手にあった倒木を掴むことで全身落下するのを回避した。
ウエストハイ・ウェーダーから沁みこむ水の冷たさが、
イワナ属も生息できるはずだと妙に納得させる。
この川は平均して膝上の水深のはずなのに、
流れが勢いよく倒木にぶつかること流れが巻き、
下流側の泥底が掘られて一メートルほどの深みが形成されていた。
それはこの先にある倒木の全てにおいてそうであった。
みるみるウェーダーに浸水してくる冷水が、この態勢からの早期脱却を促す。
チェストハイ・ウェーダーで落水していたら立てただろうかとか、
もっと水深があったらとか、急流だったらとか色々な想像が頭を巡り、
とはいえそれらはこれまでの釣り人生の中で全て経験済み。
「子供の頃から釣りに行ったら必ず濡れて帰ってくる」と祖母や母を
心配させるのが定番だったが、いやはや北海道に来ても濡れてしまうとは。
ここは助けを呼ぼうと叫んでみても、
森と流れの音で掻き消され誰も気づいてくれない湿原河川。
やはり手を差し伸べてくれる仲間との釣行が望ましいのだろうが、
それでも単独で北海道釣行に臨んだ自分の選択に後悔はない。
北海道にくるまで体作りと称してやっていた懸垂は当初十一回が限界だったが、
二年後の最高回数は二十七回を記録した。
SASUKEに出場するのも夢ではないかもと自惚れるザ・パワーで
陸に這い上がることは朝飯前だったが、
橋を叩いて渡る意識も同時に鍛えなかったから落水したのだろう。
ウェーダーをひっくり返して排水し、ずぶ濡れのポケットからスマホと、
背負っていたバッグの一眼レフカメラを確認すると、
どちらも水浸しになり電源が入らず使用不能になっていた。
これからの行動を記録できないことに項垂れてしまうが、
ロッドは無傷だったので魚釣りは続行できる。
再開にともない落水した地点を再確認してみると、
やはりそこはまるで地面だった。湿原河川の落とし穴。
教訓を胸に再び歩きだす。
川は小刻みに蛇行しながら延々と続きそこに人間による踏み跡はなく、
歩く道は植物群落の隙間を縫って時に水辺から大きく外れたり、
また川寄りに戻ったりを繰り返してキャストできる場所を探す。
川はこれまで経験したことのない小さなRが連続している。
それの最たるものは、右岸に立って左目で下流を見るのと同時に右目で上流を見る不思議な感覚。
左目で流れが去って行くのを見ながら右目で流れが向かってくるその足元の幅は、
両手をいっぱいに広げたくらいしかない。
ゆえにその先で流れはヘアピンのように曲がって戻ってくるので陸は行き止まりとなる。
同じ立ち位置でプラグをダウンストリームで流した次のキャストでアップストリームができる流れは
釣り人生において初めてのこと。
勢いのよい流れが地形にぶつかり僅かな水の変化ができていれば、
そこにプラグを泳がせると必ず魚信があった。
キャストさえできれば喰ってくる魚影の濃さに感心した。
プラグを喰った全てがアメマスであり、
それらはこれまで出会ったニッコウイワナの全長を軽く超える大物揃い。
一尾だけ飛びぬけた全長のアメマスと出会い狂喜乱舞だったが、
撮影すること叶わず水に帰し、その姿は記憶の写真として残すのみ。
高低差がない町中を流れる泥底の川にイワナ属が泳ぐのは
植物群落と年中低水温を保つ流れのおかげだろうか。
さらに釣人に目を付けられないことで生息数も減らず、
それすなわち養殖魚が放流されないことで遺伝子汚染されない、
完全な天然魚として累々と子孫を残すイワナ達。
近畿圏の身近にある川で例えるなら、
人の手が加えられずとも簡単にいくらでも釣れてくれるウグイと似ていた。
これまで訪れたどの川よりも健全な状態の川が北海道にはあり、
それを感じられる魚釣りができたことを嬉しく思った。
濡れて泥塗れのみすぼらしい姿で宿に戻り、
スマホとカメラの乾燥を急ぐ。それらの復旧には七時間を要した。
温泉に入るついでに衣類を有料の全自動洗濯機に放り込んだが、
仕上がりの悪さに首を傾げた。
横の壁に小さな貼紙があり、洗剤は宿の受付けで販売していると書かれていた。
そのことを口をとがらせ概ちゃんに言うと、めっちゃ笑った。
太い幹の倒木に両の手で掴まりながら改めて反省した。
体が落下する瞬間は冷静といえないながらも、
反射的に右手にあった倒木を掴むことで全身落下するのを回避した。
ウエストハイ・ウェーダーから沁みこむ水の冷たさが、
イワナ属も生息できるはずだと妙に納得させる。
この川は平均して膝上の水深のはずなのに、
流れが勢いよく倒木にぶつかること流れが巻き、
下流側の泥底が掘られて一メートルほどの深みが形成されていた。
それはこの先にある倒木の全てにおいてそうであった。
みるみるウェーダーに浸水してくる冷水が、この態勢からの早期脱却を促す。
チェストハイ・ウェーダーで落水していたら立てただろうかとか、
もっと水深があったらとか、急流だったらとか色々な想像が頭を巡り、
とはいえそれらはこれまでの釣り人生の中で全て経験済み。
「子供の頃から釣りに行ったら必ず濡れて帰ってくる」と祖母や母を
心配させるのが定番だったが、いやはや北海道に来ても濡れてしまうとは。
ここは助けを呼ぼうと叫んでみても、
森と流れの音で掻き消され誰も気づいてくれない湿原河川。
やはり手を差し伸べてくれる仲間との釣行が望ましいのだろうが、
それでも単独で北海道釣行に臨んだ自分の選択に後悔はない。
北海道にくるまで体作りと称してやっていた懸垂は当初十一回が限界だったが、
二年後の最高回数は二十七回を記録した。
SASUKEに出場するのも夢ではないかもと自惚れるザ・パワーで
陸に這い上がることは朝飯前だったが、
橋を叩いて渡る意識も同時に鍛えなかったから落水したのだろう。
ウェーダーをひっくり返して排水し、ずぶ濡れのポケットからスマホと、
背負っていたバッグの一眼レフカメラを確認すると、
どちらも水浸しになり電源が入らず使用不能になっていた。
これからの行動を記録できないことに項垂れてしまうが、
ロッドは無傷だったので魚釣りは続行できる。
再開にともない落水した地点を再確認してみると、
やはりそこはまるで地面だった。湿原河川の落とし穴。
教訓を胸に再び歩きだす。
川は小刻みに蛇行しながら延々と続きそこに人間による踏み跡はなく、
歩く道は植物群落の隙間を縫って時に水辺から大きく外れたり、
また川寄りに戻ったりを繰り返してキャストできる場所を探す。
川はこれまで経験したことのない小さなRが連続している。
それの最たるものは、右岸に立って左目で下流を見るのと同時に右目で上流を見る不思議な感覚。
左目で流れが去って行くのを見ながら右目で流れが向かってくるその足元の幅は、
両手をいっぱいに広げたくらいしかない。
ゆえにその先で流れはヘアピンのように曲がって戻ってくるので陸は行き止まりとなる。
同じ立ち位置でプラグをダウンストリームで流した次のキャストでアップストリームができる流れは
釣り人生において初めてのこと。
勢いのよい流れが地形にぶつかり僅かな水の変化ができていれば、
そこにプラグを泳がせると必ず魚信があった。
キャストさえできれば喰ってくる魚影の濃さに感心した。
プラグを喰った全てがアメマスであり、
それらはこれまで出会ったニッコウイワナの全長を軽く超える大物揃い。
一尾だけ飛びぬけた全長のアメマスと出会い狂喜乱舞だったが、
撮影すること叶わず水に帰し、その姿は記憶の写真として残すのみ。
高低差がない町中を流れる泥底の川にイワナ属が泳ぐのは
植物群落と年中低水温を保つ流れのおかげだろうか。
さらに釣人に目を付けられないことで生息数も減らず、
それすなわち養殖魚が放流されないことで遺伝子汚染されない、
完全な天然魚として累々と子孫を残すイワナ達。
近畿圏の身近にある川で例えるなら、
人の手が加えられずとも簡単にいくらでも釣れてくれるウグイと似ていた。
これまで訪れたどの川よりも健全な状態の川が北海道にはあり、
それを感じられる魚釣りができたことを嬉しく思った。
濡れて泥塗れのみすぼらしい姿で宿に戻り、
スマホとカメラの乾燥を急ぐ。それらの復旧には七時間を要した。
温泉に入るついでに衣類を有料の全自動洗濯機に放り込んだが、
仕上がりの悪さに首を傾げた。
横の壁に小さな貼紙があり、洗剤は宿の受付けで販売していると書かれていた。
そのことを口をとがらせ概ちゃんに言うと、めっちゃ笑った。
2025年01月18日
イトウは心に宿る49
強く張った糸の先で魚が身を捩ったその刹那、
針が外れて弧を描いていた竿が元の姿に戻った。
魚の正体は判らぬままだがアメマスであろう。
魚が居るべきところに居たことが証明されたことに、
まずまずの満足感は得られた。
誰にも教わらず訪れた初めての場所で、
自分の思い描いた釣法で魚の生息を知ること、
これが魚釣りの本質であると少年期から感じている。
釣り仲間と協力して喜びを共有するのも決して悪くないが、
全てを単独で完結することが僕の求める至上の喜び。
ある時こんなことがあった。
小学四年生の坊主を連れて魚釣りに行き、
数も大物も釣れたことで喜んだ坊主がばあさん(僕の母)に
毎度するように釣果報告をした。
するとばあさんは目を細めて喜び、こう続けた。
「でもあなたのお父さんは小さい頃から独りで行って釣ってきたよ」
厳しい捉え方をすると、その釣果は自分の実力ではなく他力本願であること。
釣らせてもらっているのに、あたかも自分で釣ったかのような言い方は恥ずかしい。
そんな薄っぺらいことで喜ばず、そろそろあなたも一人前になりなさいと、
物事の本質を捉えて坊主に発破をかけたばあさんにナイスと僕は思った。
のちに坊主は努力して独りで仕掛けを作れるようになり、
僕の知らない場所で驚かせるような釣果を何度も突き付けてきた。
そんな大きな針でよく掛けたなと唸らせた極小モツゴは、
小さいほど釣るのが難しいため価値があると教えてきた。
いつかの時は、帰宅した僕を驚かせるべく釣ってきた沢山のアメリカザリガニを
買い替えたばかりの洗面器に入れて玄関に置いていたが、
不運なことに妻や姉達にバレ、
洗えばいいだろうと反論したらしいが女連中がそれを許すはずもなく、
いますぐダイソーで新しいのを買ってこいと命じられたらしい。
そんな伝説のザリガニ洗面器は廃棄されることなく、
エンジンオイル受けとして余生を送っている。
坊主は成長するにつれフットワークが軽くなり、
僕がまだ見ぬ魚種を釣っては画像を送り付けてくる。
高校生になると自分で探索した場所で僕の最長記録を超えるスズキを釣り、
僕にハンカチを噛ませた。実に感じの悪い父親越え。
今回の北海道旅行の際には原野とヒグマの件もあり、
生きて帰ってくるよう身を案じてくれた。
そんな折だった。
次の場所へ移動しようと岸伝いを慎重に歩いていたのに、
いや、それこそ岸際は歩かないようにしていたのに、
次の一歩で靴底が踏むはずの地面が消え、
宙に放り出された体は約1メートル下にある冷たい流れに落水した。
針が外れて弧を描いていた竿が元の姿に戻った。
魚の正体は判らぬままだがアメマスであろう。
魚が居るべきところに居たことが証明されたことに、
まずまずの満足感は得られた。
誰にも教わらず訪れた初めての場所で、
自分の思い描いた釣法で魚の生息を知ること、
これが魚釣りの本質であると少年期から感じている。
釣り仲間と協力して喜びを共有するのも決して悪くないが、
全てを単独で完結することが僕の求める至上の喜び。
ある時こんなことがあった。
小学四年生の坊主を連れて魚釣りに行き、
数も大物も釣れたことで喜んだ坊主がばあさん(僕の母)に
毎度するように釣果報告をした。
するとばあさんは目を細めて喜び、こう続けた。
「でもあなたのお父さんは小さい頃から独りで行って釣ってきたよ」
厳しい捉え方をすると、その釣果は自分の実力ではなく他力本願であること。
釣らせてもらっているのに、あたかも自分で釣ったかのような言い方は恥ずかしい。
そんな薄っぺらいことで喜ばず、そろそろあなたも一人前になりなさいと、
物事の本質を捉えて坊主に発破をかけたばあさんにナイスと僕は思った。
のちに坊主は努力して独りで仕掛けを作れるようになり、
僕の知らない場所で驚かせるような釣果を何度も突き付けてきた。
そんな大きな針でよく掛けたなと唸らせた極小モツゴは、
小さいほど釣るのが難しいため価値があると教えてきた。
いつかの時は、帰宅した僕を驚かせるべく釣ってきた沢山のアメリカザリガニを
買い替えたばかりの洗面器に入れて玄関に置いていたが、
不運なことに妻や姉達にバレ、
洗えばいいだろうと反論したらしいが女連中がそれを許すはずもなく、
いますぐダイソーで新しいのを買ってこいと命じられたらしい。
そんな伝説のザリガニ洗面器は廃棄されることなく、
エンジンオイル受けとして余生を送っている。
坊主は成長するにつれフットワークが軽くなり、
僕がまだ見ぬ魚種を釣っては画像を送り付けてくる。
高校生になると自分で探索した場所で僕の最長記録を超えるスズキを釣り、
僕にハンカチを噛ませた。実に感じの悪い父親越え。
今回の北海道旅行の際には原野とヒグマの件もあり、
生きて帰ってくるよう身を案じてくれた。
そんな折だった。
次の場所へ移動しようと岸伝いを慎重に歩いていたのに、
いや、それこそ岸際は歩かないようにしていたのに、
次の一歩で靴底が踏むはずの地面が消え、
宙に放り出された体は約1メートル下にある冷たい流れに落水した。
2025年01月16日
イトウは心に宿る48
いつの頃からかアニメ・ファンに見られる聖地巡礼が周知されるようになった。
ここではマンガも含めサブカルチャーとして一括りにするが、
アニメの舞台となった地を訪れることで物語の世界に没入する聖地巡礼とは、
ファンとしての通過儀礼である。
昭和時代ならアニメ好きなんて公言しようものならオタク扱いされ、
それはそれは訝しの対象だったのだけど、令和の時代はそうではない。
アニメやマンガは、なななんと内閣府の知的財産戦略推進をする
クールジャパン戦略のひとつであり、
国策として経済成長に繋げる目論見の対象なのだ。
日本のサブカルチャーに影響を受けたインバウンド需要で
潤う企業や地域も少なくない。
現在はアニメを観るのもマンガを読むのも苦痛になってきた自分でも、
少年期に影響を受けたマンガ、いや漫画はやはり特別な存在であり、
イトウ釣りも聖地巡礼の一環だ。
三平や大助くんが奮闘した彼の地へやってきたことにより、
積年の想いが静かに溢れ出した。
ここに同じ想いを共有する仲間はいない。
当時も現在も、それらの世界観に夢を抱いたのは自分独り。
魚釣りにおけるオタク中のオタクだと言われれば、
嬉しくはないけれど僕は首を横に振ることをせず、
頷き笑うのかもしれない。
聖地を眺めながら車を走らせ、
いつしか両側の景色は広大な牧草地帯に占領され、
終わりの見えない直線道路をただひたすらに走り続けた。
概ちゃんが待つ宿泊先へ到着した時は精も根も尽き果て
HPゲージにエンプティ・ランプが灯っていたが、
ベッドで泥炭のように眠ることを許してもらえず
筆舌に尽くしがたい営みにより意識が遠のいた。
翌朝ではなく翌昼に目覚めた僕は、
のんびり釣り支度をして宿泊先の敷地を流れる川に出掛けた。
湿原の地を訪れてから四日目だというのにまだイトウは狙わない。
いまだ台風後の流れが平水に戻っていないこともあるが、
イトウは最後でいい。
本日の目的はエゾイワナあらため、
いかにもアメマスといった大きな白斑を散らした魚体に会うための釣査だ。
鳥瞰すれば町中を流れる河川なのだけど、
川の雰囲気は自分が知る里川とはまったく異なっていた。
川幅は広くてせいぜい五メートルほどだが、まず水辺に辿り着くのに鬱蒼と生い茂る
植物群落を抜けねばならず、
ようやく辿り着いた川辺の両岸の木々が川面を覆い、ただでさえ薄暗いのに
空の色もすっきりしないこともあって不気味さに輪を掛ける。
ヒグマ出没地帯なので気配に足跡や食痕をたえず確認することも怠れない。
狙うはアメマスだが、いわゆるイワナ属だ。
オショロコマの泳ぐ川も信じがたいものであったが、
こんな町中を流れる平坦な川にイワナ属が生息しているのだろうかと甚だ疑問だ。
しかも泥炭地帯であるため岸にも川底にも石などなく、
川底は泥が敷き詰め、
ウェーディングしようものなら足が泥に潜りすぐさま煙幕で水を濁らせる。
強い流れさえなければカムルチーが似合いそうな川にイワナ属が生息できるのだろうか。
それを確かめるために釣りという手段を用いるのだが、
初投に至るまでも至難の業だった。
頭上には荒れ狂ったように立ち並ぶ木々、
水辺に倒れ込む大木、流れを遮る流木とそこに溜まる流下物。
岸際の水面を隠すように生い茂る草の下は魚達が身を潜める場所に違いないが、
そこにルアーを通せる立ち位置がなければ竿を振れない。
水深こそ浅いところで膝上程度だが、レンガ色した流れの押しが強くて速い。
基本はアップストリームなのだろうが、
ルアーを通せる距離が短く流速も相まってルアーを喰わせるタイミングがない。
したがってウェーディングせず釣り下ることにした。
キャストができる隙間を見つけてはアメマスが定位していそうか確認し、
そこにルアーを通せる距離があるのか、
さらには根に巻かれることなくランディングができるかを総合判断する。
障壁の高さが初投をなかなか許さないが、
ようやく見つけた小場所にシンキング・ミノーを踊らせると、
レンガ色した流れに閃光が走った。この瞬間がたまらない。
ここではマンガも含めサブカルチャーとして一括りにするが、
アニメの舞台となった地を訪れることで物語の世界に没入する聖地巡礼とは、
ファンとしての通過儀礼である。
昭和時代ならアニメ好きなんて公言しようものならオタク扱いされ、
それはそれは訝しの対象だったのだけど、令和の時代はそうではない。
アニメやマンガは、なななんと内閣府の知的財産戦略推進をする
クールジャパン戦略のひとつであり、
国策として経済成長に繋げる目論見の対象なのだ。
日本のサブカルチャーに影響を受けたインバウンド需要で
潤う企業や地域も少なくない。
現在はアニメを観るのもマンガを読むのも苦痛になってきた自分でも、
少年期に影響を受けたマンガ、いや漫画はやはり特別な存在であり、
イトウ釣りも聖地巡礼の一環だ。
三平や大助くんが奮闘した彼の地へやってきたことにより、
積年の想いが静かに溢れ出した。
ここに同じ想いを共有する仲間はいない。
当時も現在も、それらの世界観に夢を抱いたのは自分独り。
魚釣りにおけるオタク中のオタクだと言われれば、
嬉しくはないけれど僕は首を横に振ることをせず、
頷き笑うのかもしれない。
聖地を眺めながら車を走らせ、
いつしか両側の景色は広大な牧草地帯に占領され、
終わりの見えない直線道路をただひたすらに走り続けた。
概ちゃんが待つ宿泊先へ到着した時は精も根も尽き果て
HPゲージにエンプティ・ランプが灯っていたが、
ベッドで泥炭のように眠ることを許してもらえず
筆舌に尽くしがたい営みにより意識が遠のいた。
翌朝ではなく翌昼に目覚めた僕は、
のんびり釣り支度をして宿泊先の敷地を流れる川に出掛けた。
湿原の地を訪れてから四日目だというのにまだイトウは狙わない。
いまだ台風後の流れが平水に戻っていないこともあるが、
イトウは最後でいい。
本日の目的はエゾイワナあらため、
いかにもアメマスといった大きな白斑を散らした魚体に会うための釣査だ。
鳥瞰すれば町中を流れる河川なのだけど、
川の雰囲気は自分が知る里川とはまったく異なっていた。
川幅は広くてせいぜい五メートルほどだが、まず水辺に辿り着くのに鬱蒼と生い茂る
植物群落を抜けねばならず、
ようやく辿り着いた川辺の両岸の木々が川面を覆い、ただでさえ薄暗いのに
空の色もすっきりしないこともあって不気味さに輪を掛ける。
ヒグマ出没地帯なので気配に足跡や食痕をたえず確認することも怠れない。
狙うはアメマスだが、いわゆるイワナ属だ。
オショロコマの泳ぐ川も信じがたいものであったが、
こんな町中を流れる平坦な川にイワナ属が生息しているのだろうかと甚だ疑問だ。
しかも泥炭地帯であるため岸にも川底にも石などなく、
川底は泥が敷き詰め、
ウェーディングしようものなら足が泥に潜りすぐさま煙幕で水を濁らせる。
強い流れさえなければカムルチーが似合いそうな川にイワナ属が生息できるのだろうか。
それを確かめるために釣りという手段を用いるのだが、
初投に至るまでも至難の業だった。
頭上には荒れ狂ったように立ち並ぶ木々、
水辺に倒れ込む大木、流れを遮る流木とそこに溜まる流下物。
岸際の水面を隠すように生い茂る草の下は魚達が身を潜める場所に違いないが、
そこにルアーを通せる立ち位置がなければ竿を振れない。
水深こそ浅いところで膝上程度だが、レンガ色した流れの押しが強くて速い。
基本はアップストリームなのだろうが、
ルアーを通せる距離が短く流速も相まってルアーを喰わせるタイミングがない。
したがってウェーディングせず釣り下ることにした。
キャストができる隙間を見つけてはアメマスが定位していそうか確認し、
そこにルアーを通せる距離があるのか、
さらには根に巻かれることなくランディングができるかを総合判断する。
障壁の高さが初投をなかなか許さないが、
ようやく見つけた小場所にシンキング・ミノーを踊らせると、
レンガ色した流れに閃光が走った。この瞬間がたまらない。
2025年01月11日
イトウは心に宿る47
47
積年の願いであったオショロコマとの出会いを遂げ、
しばし海を眺めながら単調なドライブが始まった。
移動を開始してようやくスマホの電波が入り、
圏外に居た時に溜まっていた連絡が一斉に届いた。
中でも、待たせている概ちゃんには心配を掛けたようで、
ちゃんと生きていることの証明を返信した。
まだ一日が始まったばかりなのに、
概ちゃんが待つ宿泊先まで延々とステアリングを握らねばならない苦痛の距離。
何十回でも言おう、北海道の道は恐ろしく退屈で、
願わくばツーリングやドライブなどで訪れたくない。
制限速度は一般道のそれであるため、窓に映る変化に乏しい景色は動かず、
そのくせ大型野生動物の飛び出しに警戒せねばならず緊張の糸を緩められず疲れる。
道の駅だのコンビニだのドライブインで気分転換もできない近代における不便の象徴。
見えない檻への収監。
いくら本音をぶちまけても北の地は微動だにせず虚無感が漂い、
この状況をなんとか褒めようとしても考えあぐねてしまう。
僅かな希望としてはキタキツネを撮影することだが、
助手席で出番を待っている超望遠レンズを装着したカメラまで
欠伸をしているようだった。
最短距離で概ちゃんが待つ宿泊地へ向かいたいところだが、
到着予定時間が夕刻に迫りそうなことに気付いた。
いくら一週間の滞在予定であっても、
移動だけで遊びの時間が削られる事に不満を覚えた。
ここでマップを確認して現在地と周辺を眺めると、
百キロばかり先に面白げな地形が見つかったことで悪巧みが露見した。
僕の持つ羅針盤がある地点を指した。
その場所はラグーンと呼ばれ、日本でも数少ない地形。
確かラグーンなる言葉を知ったのは中学生の頃で、
アドベンチャー・ゲームブック『魔人の沼』という書籍だったと記憶する。
小説でありながら選択肢によって指定されたページに飛び、
枝分かれしながら物語を完結させる画期的な書籍だった。
内訳は魔人の沼と題する通り湿地帯を舞台にした冒険で、
その中にラグーンの文字があったはずだ。
いまの地点から日本のラグーンが百キロ先にあることを知り、
予定になかった水辺に立つことに心ときめかせ、
なにも迫りこないつまらない直線に転がり出した。
するとナビゲーション・システムが感情のない音声で、
何十キロ道なりですなんて、眠りに誘引するようなことを耳打ちしてきた。
空は相変わらず晴れることなく、信号機の色も久しくみない。
ようやく遥か遠くに湿地のようなものが見えてきたが、
果たして目的地なのか、確認しようにもなかなか近寄ってこない。
マップを確認するとどうやらラグーンらしいことは間違いなさそうだが、
距離感を掴めずにいた。
そもそもラグーンそのものが想像を超えた広さだった。
道はラグーンにぶつかるが、そこから展望できないため大きく迂回する道を
進み、全体を見渡せる場所まで移動した。
水辺を探索しようにも水辺へ出ることは困難を極め、
魚釣りができるような場所はないように思えた。
引き潮だったが、
いつかやった九州の干潟で潟スキーに乗って顔も体も泥だらけになり、
哄笑しながらムツゴロウやトビハゼを手掴みできるような雰囲気はひと欠片もなく、
初めて拝むラグーンはひたすら寂寞としていた。
期待していた風景美などなく、
自然に平等であれば人の存在など威を借る狐でしかないと思わせる景色だった。
日中を思わせない空の暗さが記憶の底に沈んでいた魔人の沼を引き寄せ、
カメラを起動させることなくそこに佇んだ。
積年の願いであったオショロコマとの出会いを遂げ、
しばし海を眺めながら単調なドライブが始まった。
移動を開始してようやくスマホの電波が入り、
圏外に居た時に溜まっていた連絡が一斉に届いた。
中でも、待たせている概ちゃんには心配を掛けたようで、
ちゃんと生きていることの証明を返信した。
まだ一日が始まったばかりなのに、
概ちゃんが待つ宿泊先まで延々とステアリングを握らねばならない苦痛の距離。
何十回でも言おう、北海道の道は恐ろしく退屈で、
願わくばツーリングやドライブなどで訪れたくない。
制限速度は一般道のそれであるため、窓に映る変化に乏しい景色は動かず、
そのくせ大型野生動物の飛び出しに警戒せねばならず緊張の糸を緩められず疲れる。
道の駅だのコンビニだのドライブインで気分転換もできない近代における不便の象徴。
見えない檻への収監。
いくら本音をぶちまけても北の地は微動だにせず虚無感が漂い、
この状況をなんとか褒めようとしても考えあぐねてしまう。
僅かな希望としてはキタキツネを撮影することだが、
助手席で出番を待っている超望遠レンズを装着したカメラまで
欠伸をしているようだった。
最短距離で概ちゃんが待つ宿泊地へ向かいたいところだが、
到着予定時間が夕刻に迫りそうなことに気付いた。
いくら一週間の滞在予定であっても、
移動だけで遊びの時間が削られる事に不満を覚えた。
ここでマップを確認して現在地と周辺を眺めると、
百キロばかり先に面白げな地形が見つかったことで悪巧みが露見した。
僕の持つ羅針盤がある地点を指した。
その場所はラグーンと呼ばれ、日本でも数少ない地形。
確かラグーンなる言葉を知ったのは中学生の頃で、
アドベンチャー・ゲームブック『魔人の沼』という書籍だったと記憶する。
小説でありながら選択肢によって指定されたページに飛び、
枝分かれしながら物語を完結させる画期的な書籍だった。
内訳は魔人の沼と題する通り湿地帯を舞台にした冒険で、
その中にラグーンの文字があったはずだ。
いまの地点から日本のラグーンが百キロ先にあることを知り、
予定になかった水辺に立つことに心ときめかせ、
なにも迫りこないつまらない直線に転がり出した。
するとナビゲーション・システムが感情のない音声で、
何十キロ道なりですなんて、眠りに誘引するようなことを耳打ちしてきた。
空は相変わらず晴れることなく、信号機の色も久しくみない。
ようやく遥か遠くに湿地のようなものが見えてきたが、
果たして目的地なのか、確認しようにもなかなか近寄ってこない。
マップを確認するとどうやらラグーンらしいことは間違いなさそうだが、
距離感を掴めずにいた。
そもそもラグーンそのものが想像を超えた広さだった。
道はラグーンにぶつかるが、そこから展望できないため大きく迂回する道を
進み、全体を見渡せる場所まで移動した。
水辺を探索しようにも水辺へ出ることは困難を極め、
魚釣りができるような場所はないように思えた。
引き潮だったが、
いつかやった九州の干潟で潟スキーに乗って顔も体も泥だらけになり、
哄笑しながらムツゴロウやトビハゼを手掴みできるような雰囲気はひと欠片もなく、
初めて拝むラグーンはひたすら寂寞としていた。
期待していた風景美などなく、
自然に平等であれば人の存在など威を借る狐でしかないと思わせる景色だった。
日中を思わせない空の暗さが記憶の底に沈んでいた魔人の沼を引き寄せ、
カメラを起動させることなくそこに佇んだ。
2025年01月10日
イトウは心に宿る46
上流へ向けて歩みを進めれば魅惑の溜まりがいくつもあり、
ひとつ大きな岩を迂回して段差を越えると、
これまでより長くて幅広い、見事な渓相が目の前に現れた。
オショロコマの全長もこれまでより成長したものがいそうな雰囲気だった。
奥にある小さな落ち込みには幾筋もの流れが同時に落ちて広い白泡を作り、
そこから自分の立つところまでは一定して浅く単調な流れのようだが、
じっくり流れを読むことでプラグを通すコースを見極め、
誘いから喰わせる場所までをしっかり思い浮かべた。
手前から探るなんてことをせず、
おもいきって白泡の底に潜むオショロコマを誘い、
流速が速くなる瀬に入るまでの短い区間で喰わせる。
プラグを白泡へ放り込み、すぐさまラインテンションを操作して
流れに踊らせる。黒い魚影が勢いよく飛び出してきたのが見えた。
その魚影は流れを追い越すような速度でプラグに追いつき喰らいついた。
ここからは無我夢中だった。
魚との攻防など大層なこともなく容易く寄ってくる小さな魚なのに、
落ち着き冷静さを欠くことなく濡らしたランディングネットにおさまるまで、
僕は興奮の坩堝で記憶が真っ白になってしまった。
水に浸したランディングネットの中の渓流の宝石を眺める。
黒いパーマークが並び、側線の上下に散りばめられた橙色の小さな斑点。
腹部の鮮やかな橙色に息をのみ、胸鰭、腹鰭、尻鰭、そして下葉まで透き通る橙色に染まり、
腹鰭と尻鰭の縁だけは清らかな白色が強く主張しており、
シロヒレタビラを思わす美しさだった。
オショロコマ一族は完全とはいえないが海との交流を断ち、
悠久の昔からこの一帯で繁栄し、
これからも種を永らえるべく子孫を残すのだろう。
撮影を済ませて静寂の流れに姿を見送ると僕はスナップからプラグを外し、
小さなボックスに収めた。
素晴らしい渓相が僕を森の奥へと引き寄せるが、
これ以上釣り上げてなんになろう。
沢山釣らないと満足できないとか、
より大きなオショロコマに出会いたいといった欲望は影を潜めた。
いいところで終わる、足るを知る。
川を下っているとき歩みが止まり凍り付いた。
流れの脇にある一抱えほどの大きさの岩の上に、
直近でヒグマが食べていたであろう大きな魚が放置されていた。
薄い桃色のブナが印象的だが頭部から半分が欠損しており魚種は不明。
鮮度や状況を鑑みるに僕の気配を感じ、慌てて逃げたのだろうか。
強烈な残り香は感じなかったけれどヒグマとの距離は遠くなかったらしい。
入渓時にスマホは圏外だったし、湿原河川のような迷う渓相でもなく
概ちゃんには連絡をしていなかったが、無事に二本足で車まで辿り着けた。
五時に起床して六時過ぎに納竿、濃密な釣行。
吹きすさぶ潮風と潮騒が暴れ、
原始の森から追い出されるようにオショロコマの楽園をあとにした。
2025年01月09日
イトウは心に宿る45
豊かな森の奥から流れ出る澄んだ水にオショロコマ達が泳ぎ、
次に投じたルアーに喰いつくだろうことはわかりきっていた。
特別な技巧を凝らさずとも、これまでやってきたように
水の流れを読んでルアーを投じた。
透き通る水中にプラグが踊ると、
底に潜んでいた黒い影たちが勢いよく飛び出してくる。
水流に押されてターンするラインを追うようにプラグも流れを横切り、
オショロコマであろう黒い影達も追尾してくる。
そして・・・・・・喰わない。
なんだなんだと苦笑いするしかなく、
同様のことが数回繰り返されると苦虫を噛み潰したようになりそうで、
まてまて大自然の中で遊ばせてもらっているのに、
そんな荒んだ気持ちになってはいけないと軽く舌打ちひとつ平静を装う。
ひとつ上のひらきへ移動して、ここでも追尾だけで終わり、
もうひとつ上のひらきでも喰い損ねる光景を目の当たりにすると、
オショロコマのぶんざいで・・・・・・などと乱暴な言葉を口走りそうになる。
初魚が簡単に釣れてしまうのはむしろ不幸なことであり、
最初の一尾に辿り着くには苦労を重ねた方が、
出会えた瞬間により味わい深い思い出となる。
しかしだ、目の前に狙いの魚が複数尾居て、
しかもそれらは喰い気満タンの据え膳状態。
これで釣り上げられないのは釣人の技量の問題ではないかと地団太を踏む。
あまりにもオショロコマ達が小形でプラグに喰いつかない感じに、
プラグのサイズを5ミリ小さなものに交換する。
小型のルアーケースを開け、
お目当てのプラグを摘まみだそうと視線を落とす時も周囲に気を配る。
そんな一瞬の隙にヒグマに間合いを詰められてはならないと警戒を怠らない。
ここは北海道の中でも断然トップのヒグマ生息地帯で、
しかもヒグマのご馳走達がこぞって海から川に集結する季節ときたもんだ。
そんな場所でわざわざ小魚を釣る旅人ひとり。なんて愚かな行為。
そういえばシマフクロウ撮影で出会ったひとりの御仁が
真剣な眼差しでヒグマ対策を皆に教えてくれた。
「決して背を向けて逃げてはならず、
睨みつけたままヒグマが目の前ニメートル接近するまで我慢する。この距離が大事だ。
さらに接近したなら相撲の技である猫騙しを食らわせる。そうすると驚いて逃げるのだ」
というもの。
知り合って間もないご年輩のため、そんなアホなという言葉だけを心で発して笑い、
これはボケのパスを投げたものだと判断できたので続けざまに、
クマのプーさんちゃうねんぞというツッコミが喉元まで上がってきたが、
残りのお二人が神妙な面持ちで頷いていたのを見て、僕は軽く横に仰け反った。
え、本気?笑うとこちゃうの?
これはまるで、
夜のお店で囁かれた女性のリップサービスを本気に受取り、
そのおばはん、もとい女性は既婚者だというのに夜な夜な貢ぎに貢ぎ、
一度だけ接吻をしてもらったことで童帝(わらべのみかど)を強く刺激されたらしく、
有頂天になり、おばはんの愛の住処である住宅ローンの完済まで数年に渡り貢いだ
元釣り仲間の同級生みたいに愚かな、もとい、ピュアなハートだ。
叶わぬ恋のリターンはとりもなおさず火の車だったわけだが、
生きていく上で慧眼を磨かないと地獄を見ることになる典型例。
いやいや当の本人は女性が望むものを献上し、喜ぶ女性を見て自分も嬉しい。
不貞行為なく童帝を喜ばせつつ大金を得るウィンウィン疑似恋愛かあ、
やるじゃないか魔性の女め。
余談さておき、さあ貴方たちは漏らさず何メートルまでヒグマの接近に耐えられるのかしら。
クマと対戦したマサ斎藤じゃないのだから、
突進されたら脊髄反射が如く逃げ出すでしょうよ。
その気にさせては寸止めするオショロコマ達よ、
キスだけでなくそろそろ銜えてください。
次に投じたルアーに喰いつくだろうことはわかりきっていた。
特別な技巧を凝らさずとも、これまでやってきたように
水の流れを読んでルアーを投じた。
透き通る水中にプラグが踊ると、
底に潜んでいた黒い影たちが勢いよく飛び出してくる。
水流に押されてターンするラインを追うようにプラグも流れを横切り、
オショロコマであろう黒い影達も追尾してくる。
そして・・・・・・喰わない。
なんだなんだと苦笑いするしかなく、
同様のことが数回繰り返されると苦虫を噛み潰したようになりそうで、
まてまて大自然の中で遊ばせてもらっているのに、
そんな荒んだ気持ちになってはいけないと軽く舌打ちひとつ平静を装う。
ひとつ上のひらきへ移動して、ここでも追尾だけで終わり、
もうひとつ上のひらきでも喰い損ねる光景を目の当たりにすると、
オショロコマのぶんざいで・・・・・・などと乱暴な言葉を口走りそうになる。
初魚が簡単に釣れてしまうのはむしろ不幸なことであり、
最初の一尾に辿り着くには苦労を重ねた方が、
出会えた瞬間により味わい深い思い出となる。
しかしだ、目の前に狙いの魚が複数尾居て、
しかもそれらは喰い気満タンの据え膳状態。
これで釣り上げられないのは釣人の技量の問題ではないかと地団太を踏む。
あまりにもオショロコマ達が小形でプラグに喰いつかない感じに、
プラグのサイズを5ミリ小さなものに交換する。
小型のルアーケースを開け、
お目当てのプラグを摘まみだそうと視線を落とす時も周囲に気を配る。
そんな一瞬の隙にヒグマに間合いを詰められてはならないと警戒を怠らない。
ここは北海道の中でも断然トップのヒグマ生息地帯で、
しかもヒグマのご馳走達がこぞって海から川に集結する季節ときたもんだ。
そんな場所でわざわざ小魚を釣る旅人ひとり。なんて愚かな行為。
そういえばシマフクロウ撮影で出会ったひとりの御仁が
真剣な眼差しでヒグマ対策を皆に教えてくれた。
「決して背を向けて逃げてはならず、
睨みつけたままヒグマが目の前ニメートル接近するまで我慢する。この距離が大事だ。
さらに接近したなら相撲の技である猫騙しを食らわせる。そうすると驚いて逃げるのだ」
というもの。
知り合って間もないご年輩のため、そんなアホなという言葉だけを心で発して笑い、
これはボケのパスを投げたものだと判断できたので続けざまに、
クマのプーさんちゃうねんぞというツッコミが喉元まで上がってきたが、
残りのお二人が神妙な面持ちで頷いていたのを見て、僕は軽く横に仰け反った。
え、本気?笑うとこちゃうの?
これはまるで、
夜のお店で囁かれた女性のリップサービスを本気に受取り、
そのおばはん、もとい女性は既婚者だというのに夜な夜な貢ぎに貢ぎ、
一度だけ接吻をしてもらったことで童帝(わらべのみかど)を強く刺激されたらしく、
有頂天になり、おばはんの愛の住処である住宅ローンの完済まで数年に渡り貢いだ
元釣り仲間の同級生みたいに愚かな、もとい、ピュアなハートだ。
叶わぬ恋のリターンはとりもなおさず火の車だったわけだが、
生きていく上で慧眼を磨かないと地獄を見ることになる典型例。
いやいや当の本人は女性が望むものを献上し、喜ぶ女性を見て自分も嬉しい。
不貞行為なく童帝を喜ばせつつ大金を得るウィンウィン疑似恋愛かあ、
やるじゃないか魔性の女め。
余談さておき、さあ貴方たちは漏らさず何メートルまでヒグマの接近に耐えられるのかしら。
クマと対戦したマサ斎藤じゃないのだから、
突進されたら脊髄反射が如く逃げ出すでしょうよ。
その気にさせては寸止めするオショロコマ達よ、
キスだけでなくそろそろ銜えてください。
2025年01月07日
イトウは心に宿る44
原生林を駆け下る原始の渓の入口に立ち、奥へと続く景観を眺めた。
大小の岩や石で形成される地形により水は離合集散し、
落差で白泡を生み、淵があって瀬へと続き、また落差へと続く、
のべつまくなしの流れは健全な姿。
なにより水底が丸見えの透明度に息をのんだ。
ここに意中の魚オショロコマが泳ぐ。
オショロコマの最後の聖域と呼ばれるこの地域は、
イワナの生息限界を越えた場所にあり、
それは群雄割拠に競り勝ったオショロコマの楽園。
幼い頃に釣り番組で見た渓流の宝石のようなオショロコマは、
魚類の中でもっとも美しいと断言でき、
いまでもその気持ちは揺るがない。
だが世間的には、さほど大きく育たないためか、
釣人からの支持はないらしく、
オショロコマの釣果自慢を耳にしたことはない。
同じく北海道にしか生息しないイトウだが、
こちらは養殖魚が管理釣場でお目に掛かれるので、
僕にとってはオショロコマの方がよほど魅力的に映る。
養殖や放流もされない人為的とは全く無縁の完全なる天然魚オショロコマ。
今日という日が訪れた。オショロコマの存在を知ってから四十余年、
渓の宝石オショロコマに出会うために遥々ここへやってきた。
明鏡止水で人生初となる一投目をいざ試みる。
小型のシンキング・ミノーをアップクロスで射ち込み、
ボディを連続して翻しながら流れを横切らせると、
数尾の魚影が勢いよくルアーを追尾するのが確認できた。
それらは喰いつくことなくルアーを水から上げ、
これが原始の渓の当り前の姿なんだと僕は少し笑った。
初めてゴギの探釣をしたときも一投目から喰ってきたし、
ヤマトイワナの時も同じ、ニッコウイワナだって釣人が寄り付かない
渓谷であれば一投目で釣れることは珍しくない。
釣人に荒らされていなければ、
そこがイワナの楽園であるならば、
イワナ属は釣ることが決して難しい魚ではない。
入渓しやすい場所であり、渓の入口なのにこの魚影。
本当に釣人から相手にされていない魚らしく、
北の大地にはもっと大きく、引きが強く、食べて美味しい魅力的な魚種達が
あちこちのテーブルで大皿に盛られているので、
オショロコマは釣人の魔の手から逃れているように思え僕は安堵した。
オショロコマ・ゲームとか、オショロコマイングとか、
バカの一つ覚えのようなネーミングの釣りが未来永劫おとずれないことを願い、
次なるキャストをすべくスピニング・リールのベールを起こした。
大小の岩や石で形成される地形により水は離合集散し、
落差で白泡を生み、淵があって瀬へと続き、また落差へと続く、
のべつまくなしの流れは健全な姿。
なにより水底が丸見えの透明度に息をのんだ。
ここに意中の魚オショロコマが泳ぐ。
オショロコマの最後の聖域と呼ばれるこの地域は、
イワナの生息限界を越えた場所にあり、
それは群雄割拠に競り勝ったオショロコマの楽園。
幼い頃に釣り番組で見た渓流の宝石のようなオショロコマは、
魚類の中でもっとも美しいと断言でき、
いまでもその気持ちは揺るがない。
だが世間的には、さほど大きく育たないためか、
釣人からの支持はないらしく、
オショロコマの釣果自慢を耳にしたことはない。
同じく北海道にしか生息しないイトウだが、
こちらは養殖魚が管理釣場でお目に掛かれるので、
僕にとってはオショロコマの方がよほど魅力的に映る。
養殖や放流もされない人為的とは全く無縁の完全なる天然魚オショロコマ。
今日という日が訪れた。オショロコマの存在を知ってから四十余年、
渓の宝石オショロコマに出会うために遥々ここへやってきた。
明鏡止水で人生初となる一投目をいざ試みる。
小型のシンキング・ミノーをアップクロスで射ち込み、
ボディを連続して翻しながら流れを横切らせると、
数尾の魚影が勢いよくルアーを追尾するのが確認できた。
それらは喰いつくことなくルアーを水から上げ、
これが原始の渓の当り前の姿なんだと僕は少し笑った。
初めてゴギの探釣をしたときも一投目から喰ってきたし、
ヤマトイワナの時も同じ、ニッコウイワナだって釣人が寄り付かない
渓谷であれば一投目で釣れることは珍しくない。
釣人に荒らされていなければ、
そこがイワナの楽園であるならば、
イワナ属は釣ることが決して難しい魚ではない。
入渓しやすい場所であり、渓の入口なのにこの魚影。
本当に釣人から相手にされていない魚らしく、
北の大地にはもっと大きく、引きが強く、食べて美味しい魅力的な魚種達が
あちこちのテーブルで大皿に盛られているので、
オショロコマは釣人の魔の手から逃れているように思え僕は安堵した。
オショロコマ・ゲームとか、オショロコマイングとか、
バカの一つ覚えのようなネーミングの釣りが未来永劫おとずれないことを願い、
次なるキャストをすべくスピニング・リールのベールを起こした。
2025年01月06日
イトウは心に宿る43
イトウさておき、意中の魚を求めて車に乗り込む。
実のところその魚は窓から見下ろす小さな流れに泳いでいるのだけど、
ここは神聖なるシマフクロウの縄張りであるため、場を荒らすことは愚の骨頂。
糸を垂らすことを辞退して静かにその場を後にした。
明け方の空は鈍色で、ドライブするには不向きであるが魚釣り日和である。
こういった感覚が異性には理解し難いので、
いまだ愛を求め彷徨う独身釣人なら口に出すのはよした方がいい。
海沿いに車を走らせるものの目的地は決まっておらず、
しかしながらこの一帯全ての河川に生息しているはずなので、
入渓しやすい川を求めて幾つもの橋を越え、
同時に海岸をうろつくヒグマの姿にも気を配る。
北海道に来たならば日本最大の陸生哺乳類にも会いたい。
すぐさま撮影できるよう助手席には超望遠レンズを装着したままのカメラを置いている。
海岸には小さな流れ込みが幾つもあり、
流れ込みの両脇には必ず釣竿を持つ数人の姿があった。
シロザケかカラフトマスの回遊を狙っているように思うが、
釣り雑誌や釣り番組で見たことがある北海道の風物詩に出会えた。
ここでは琵琶湖名物の流れ込みに立ち込むような目を疑う惨劇はなく、
ひと目で釣りの基本と技量が一線を画すのをうかがい知れた。
これだけ海岸に釣人が占拠していればヒグマは現れないのだろうか、
少し残念な気持ちを抱えたまま、
自分の感性が反応を示した川に車を停めた。
この川でも海へ吐出す流れの両脇で釣人達が竿を振っていたが、
当然のことながら皆は沖に向かってルアーを放っている。
そんな釣人達の背後で僕はいまから渓流釣りをするのだけれど、
僕にとってこんな不思議な光景はない。
右岸に立つ僕が例えば、右を向いて竿を振れば海水にルアーが落ち、
左を向いて投げれば渓流にルアーが落ちる。
渓流と海の間には落差があり、
水量もさほど多くないため汽水域と呼べるほど立派なものはなく、
渓流と海が直結している。
右に投げれば海の魚が釣れ、左に投げれば渓流魚。なんだここは。
実のところその魚は窓から見下ろす小さな流れに泳いでいるのだけど、
ここは神聖なるシマフクロウの縄張りであるため、場を荒らすことは愚の骨頂。
糸を垂らすことを辞退して静かにその場を後にした。
明け方の空は鈍色で、ドライブするには不向きであるが魚釣り日和である。
こういった感覚が異性には理解し難いので、
いまだ愛を求め彷徨う独身釣人なら口に出すのはよした方がいい。
海沿いに車を走らせるものの目的地は決まっておらず、
しかしながらこの一帯全ての河川に生息しているはずなので、
入渓しやすい川を求めて幾つもの橋を越え、
同時に海岸をうろつくヒグマの姿にも気を配る。
北海道に来たならば日本最大の陸生哺乳類にも会いたい。
すぐさま撮影できるよう助手席には超望遠レンズを装着したままのカメラを置いている。
海岸には小さな流れ込みが幾つもあり、
流れ込みの両脇には必ず釣竿を持つ数人の姿があった。
シロザケかカラフトマスの回遊を狙っているように思うが、
釣り雑誌や釣り番組で見たことがある北海道の風物詩に出会えた。
ここでは琵琶湖名物の流れ込みに立ち込むような目を疑う惨劇はなく、
ひと目で釣りの基本と技量が一線を画すのをうかがい知れた。
これだけ海岸に釣人が占拠していればヒグマは現れないのだろうか、
少し残念な気持ちを抱えたまま、
自分の感性が反応を示した川に車を停めた。
この川でも海へ吐出す流れの両脇で釣人達が竿を振っていたが、
当然のことながら皆は沖に向かってルアーを放っている。
そんな釣人達の背後で僕はいまから渓流釣りをするのだけれど、
僕にとってこんな不思議な光景はない。
右岸に立つ僕が例えば、右を向いて竿を振れば海水にルアーが落ち、
左を向いて投げれば渓流にルアーが落ちる。
渓流と海の間には落差があり、
水量もさほど多くないため汽水域と呼べるほど立派なものはなく、
渓流と海が直結している。
右に投げれば海の魚が釣れ、左に投げれば渓流魚。なんだここは。